レヴュースタァライト最終回感想 オタクは美少女剣闘士奴隷の夢を見るか

「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」最終話、面白かったですね。分かります。

こう、良くも悪くも、期待通りというか予想通りというか、まぁ最終回に日常描写は必要だよね分かりますとか、物語の入れ子構造に従えばひかりちゃんが囚われているのはレヴュースタァライトの一人芝居だよね分かりますとか、飛び入りのカットはリフレイン演出だよね分かりますとか、別の結末がありえたかもしれない!再生産!だよね分かりますとか、最後は第100回聖翔祭だよね分かりますとか。

 

ブログで「いよいよ最終回!解釈せよ!あなたなりの結末をお持ちなさい!」とか言っておいて劇場版商法されたらどうしようかと正直気が気ではなかったんですが、本当に綺麗にシメてくれて良かった。素晴らしいアニメをありがとう。

revuestar.hatenadiary.jp

でねでねでね。そんなワケで本筋というか、理性的な感想とか評論については最終回前に言いたいことだいたい言っちゃったんですが。

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アタシタチ 再生産!「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」

「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」が面白い。

どこがどう面白いとか、サワリだけも羅列したりすればいっぱしの評論ブログみたいになるんだろうけど、最終話を見るために早寝しないといけなくて時間無いし、何よりこのアニメめっちゃ面白いところが多すぎて困ってしまう。

ただ、一つだけ、一つだけどうしても、最終回前に「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」で感じた感動を伝えたい。そう思って筆を執った。


参考までに、筆者の視聴状況としては、古里P*1絡んでるなら見なきゃ!と前々からチェックしていて、「先にウテナ見たほうが良いのか?」となってウテナ見てみて、んでこの前の三連休で11話まで一気に追いついたといった感じ。お恥ずかしながら舞台は未視聴。

 

あ、推しは大場ななちゃんです。ぼくは一人で抱え込み系感情爆発女が大好きなんですが、そこに母性まで備わっているので最強です。

 

人を『再生産』する物語讃歌「レヴュースタァライト

『再生産』。

元の意味は、「労働者がその生み出した製品(財)を消費してまた明日の労働力を『再生産』するのだ」みたいな意味だったような気がする。もっと雑に言うと「パン作って腹減ったのでパンを食う。そのおかげでまたパンが作れる」みたいなループのことを言うのだったと思う。たぶん。

原義はともかくとして*2「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」は登場人物が物語を見ることで、また演じることで自らを『再生産』する(再起、再発見、進歩などと言い換えても良いかもしれない)話だ。

たとえば、華恋とひかりが見た「(戯曲)レヴュースタァライト」が二人に『キラめき』を与え、舞台少女として『再生産』(目覚め)させたところから、この物語は始まっている。

作中で「奪い合い」などと言われている『レヴュー』だが、本編中では彼女らが舞台の上でぶつかり合った結果、人間関係を進展させていくというポジティブな役割も多く果たしている。『レヴュー』を一つの劇として見た時、『舞台少女』という非日常の役を通して相手と自分の思いを確かめ合う『再生産』の場になっている。

何より彼女らは皆、「(聖翔祭)レヴュースタァライト」に魅せられた少女たちだ。彼女らの絆の根幹にはまた、物語「レヴュースタァライト」がある。

 

深夜アニメなんかの小賢しい考察ブログなんかを読みに来ちゃってる諸兄はご存知の通り、「物語」はいつの世でも人の心を震わせ、現し世の辛さを癒やすと共に、時に自分の人生を見つめ直させる力がある

きっとそれは、物語を作り出す側、演じる側も同じだ。私なんかはこの程度のブログを書いたり、コミケで頒布価格=印刷代の本を時々売ったりする程度の志の低い創作者だが、その片鱗を味わうことがある。スタァを目指し鎬を削り、舞台に立つ少女たちの「緊張感、高揚感、キラめき」は計り知ることが出来ないだろう。

「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」はそんな『物語』を讃える物語なのだ。『物語』の『キラめき』が、あらたな『物語』の『キラめき』を生み出す。それはきっと、どこかで連鎖になっている。そのことの美しさを、「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」は謳っている。

 

物語の物語、レヴュースタァライト

さて、そんな「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」には、多くの『レヴュースタァライト』という物語が重なってなって存在している

華恋とひかりが子供の頃見た「(戯曲)レヴュースタァライト」、九九期生が演じる(ばななが運命の舞台とした)「(聖翔祭)レヴュースタァライト」、そしてアニメ「少女☆歌劇レヴュースタァライト」だ*3

特に「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」と、「(戯曲)レヴュースタァライト」の一致は誰もが気付いていることだろう。

  • 塔の麓(東京タワー下のショップ)で交わされた誓い。
  • 記憶を失うクレール(『キラめき』を失い、約束を忘れかけていたひかり)。
  • 行く手を阻む女神たち(『レヴュー』。「この先に行ってはならぬ」という劇の内容に合わせて、ばななちゃんの尺が長い)。
  • 視力を失い、地に落ちるフローラ(レヴューの頂上から落ち、舞台への情熱を失った華恋)。

思い出して欲しい。ひかりは留学先のイギリスで『きらめき』を失ってしまう*4。だが、華恋との約束を残り火に日本に戻ってくることが出来たひかりは、再び華連と『二人で一つの運命』を紡ぎ、『キラめき』を『再生産』するにまで至る。

それは、ふたたび東京タワーの麓の公園で交わした二人の『物語』が、「(戯曲)スタァライト」の『再演』として動き出したからだ。自ら物語となった二人は、『キラめき』を増して『レヴュー』を勝ち上がっていく。 

この見事な入れ子構造!「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」において、『物語』は連鎖して『キラめき』を生み出すエンジンであり、ストーリーの骨格にもなっている。

 

アタシタチ 再生産!

本題。

物語が『キラめき』を与えているのは、何も劇中の女の子たちだけではない。物語は、深夜に一人部屋でテレビ画面に齧りついて美少女アニメを見ている我々キモオタにだって『キラめき』を与えてくれているはずだ

「少女☆歌劇レヴュースタァライト」はそのことを、高らかに謳い上げてくれている。

 

さて、「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」は、演劇とアニメ(とスマホゲー)が同時展開する作品だ。

アニメというメディアは、何度再生しても、画面上の画素の振る舞いは半永久的に変わらない、繰り返しとコピー可能なメディアである。一方で演劇は、そこで演じるのが人間である以上、同じ題目であっても、演じる者の息遣い等が一致することはありえず、そこには強烈な一回性が生じる。ここでその優劣について論じるつもりはない*5、あくまでそういう性質のメディアであるという前提を共有したい。

 一方で、アニメ「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」は演劇と同時進行していることを差し置いても、演劇のような一回性を強烈に意識した作品だ。「舞台少女は日々進化中」で、ばななちゃんの閉じこもった時間を打ち破り、新しい「(聖翔祭)レヴュースタァライト」を常に最高のものにしようと青春を駆ける少女たちの物語だ。

ここで我々は、アニメ「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」の描こうとする一回性と、アニメというメディアが持つ反復可能性、複製可能性の間に苦しまねばならない。

オタクっぽく言うと「ななちゃんが次に進もうとしてるところが良いアニメなのに!俺は何度も同じアニメ見て『わかります』とか言ってるだけなんか?!進歩してなくない?!」といった感じである。

見ている途中からボンヤリそんなことを思いながら見ていたわけだが、以下の記事を読んだことから、上述の疑問は氷解していった。

enonoki.hatenablog.com

過去からの再生産でありながら、そこで生まれる眩しさ(=感動)というものは過去と同じ再生産されるものではない。

演出やセリフは吟味され、ベストを目指して熟考を経て、全く新しい物語と、新しい感動を生み出す。

 

「実質○○」と冗談交じりに評されがちな、過去の名作のエッセンスをふんだんに含んだ「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」は、しかし全く新しい物語として立ち上がっていて、それが華恋たちの「日々進化」とシンクロしている名作であるという意味だと解釈した。筆者も全く同じ意見だ。実質舞-HiMEだし。

 

ということは、「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」も常に再解釈、『再生産』できるはずなのだということに気づく。

物語は作者の唯一の思想によるものではなく、受け手によって無限の解釈が存在する。

その解釈の披露大会によって互いの解釈が変わることもあるし、「受け手」であるあなたも私も、歳をとれば変わっていく。円盤を揃えた半年後その先の1年後、5年後、10年後。きっと新しい気付きがあるだろう、と思えるだけの映像の密度を、レヴュースタァライトは持っている。

 

おいおい2010年台も終わろうっていうのに動ポモの読み過ぎか?*6と言われてしまいそうだが、「レヴュースタァライト」の物語の入れ子構造は、この解釈を裏付けてくれると思っている。

「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」と「(戯曲)レヴュースタァライト」が骨格を同じくした物語だという点は確認した。「(戯曲)レヴュースタァライト」と同じ結末を迎えた華恋とひかりは引き裂かれ、華恋は舞台への情熱を失ってしまう。

しかし、華恋は「(原典)レヴュースタァライト」を『翻訳』し、自分の知らなかった結末へとたどり着く*7

物語を容れ物とし、物語によって動く作品が、物語の翻訳・再解釈(=再生産)によって閉じられようとしている。なんと美しいことだろうか。

 

これから最終話で明かされるのは、誰もが知らなかった「レヴュースタァライト」の結末だ。その瞬間に立ち会えることが、幸せで仕方ない。

最終回が放送されれば、各々が感じたことを好き勝手にネットの海に放流する時間が始まるだろう。私もそうする。おおいにそうしようではないか。「レヴュースタァライト」は『翻訳せよ、解釈せよ』と謳っているのだから。そうすることで、これから見る最終話は、それぞれにとって一度きりの『キラめき』になるのだから。

 

 

アタシタチ 再生産

しましょう。

*1:まさか氏が世紀の名作「舞-HiME」「舞-乙HiME」「アイドルマスターXENOGLOSSIA」のプロデューサーであることを知らない方はいらっしゃらないと思うので本文中では省いた

*2:大学時代にチラッと聞いた話をWikipediaで確認しただけなので他で話すとたぶん恥かくぞ!

*3:もちろん舞台版もだが、とりあえず置いておく。筆者がまだ見れてないので……

*4:あのイギリスでのレヴューが一体何なのかみたいな話は本筋から外れるので、まぁ挫折したんでしょうくらいに捉えておこうと思う

*5:再生環境がとか円盤の作画修正がとかいうご意見もあろうが、それもここでは置いておく

*6:実際なんとなく引用するとカッコがついたので10単位どころではない借りがある

*7:華恋が読んでたのは原典だろ!などという無粋なツッコミはないと思いたいが、念の為述べておくと「新しい解釈が生まれた」ことが重要なのであって出処の前後は問題ではない。